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サイエンスマンの本格科学メモ

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現代物理、進化論、脳科学など、現代の科学についての個人的思考を中心に記録します。

遺伝子は利己的か?

 擬人化の問題と論理的誤り

 利己的遺伝子はリチャード・ドーキンスがその著書で述べた考え方で、すでに第三版(30周年記念版)が出版されています。端的にいえば遺伝子は利己的なふるまいをするという議論ですが、第三版の序にあるようにドーキンス自身もこのタイトルは誤解を招くもので、まずかったと反省しています。しかし一面の真理であり、また擬人化は新しい考え方の発見に必要、ということでタイトルを変えることはしていません。

 もちろん擬人化が科学的発見のきっかけになることはあるでしょう。しかしその発見を表現するのに擬人化したままでは、ドーキンスが反省しているように誤解を招きかねません。さらに、遺伝子をいかにも主体であるかのように表現するのは、以下に示すように誤解を招くだけでなく、論理的に誤っています。 

 ドーキンスは遺伝子が主体として扱える根拠として、生命のレプリケータ説をあげています。生命の誕生は、同じものを複製するレプリケータに始まるという説です。レプリケータが進化して現在の遺伝子になり、ボディは後から遺伝子を運ぶ容器として加わったとして、有名な「ボディは遺伝子を運ぶ入れ物にすぎない」という言い方が出てきます。

 仮にレプリケータ説が正しいとして、情報を運ぶだけのレプリケータが最初に誕生したことは、それ自身矛盾しています。というのは、ボディがまだないのに何の情報を運ぶ必要があるのでしょうか。遺伝子にはボディの情報、あるいはボディを造る情報があるはずです。正解は、レプリケータとは、情報を運ぶ媒体であるとともにボディでもある、ということです。レプリケータではボディを作る情報とボディがたまたま同じであるだけです。

 もしレプリケータ説が誤りであっても、生命の誕生には、情報を保持して複製するものと、その情報で作られるボディが同時に造られるはずです。でなければ、新たな生命が複製できなくなり、それは生命になりえないからです。遺伝情報がなければ子孫は造れませんし、ボディがなければ情報を保持して複製することができません。したがって、情報を持つ遺伝子だけ先にできるということはあり得ないのです。

 そうなると、「利己的な遺伝子」という言い方は誤解を招くだけでなく、論理的に誤りであるということになります。たしかにある種の生物の利他的行動が、遺伝子を中心に見れば利己的な行為として理解できます。いわゆる血縁選択説はすでに議論されていて、「利己的な遺伝子」によって新しい事実が加わるわけではなく、むしろ適切でない拡大解釈に陥っています。進化は自然選択や偶然により進むもので、特別な主体はどこにもなく、あたかも遺伝子が主体かのように表現するのは、その点からも誤りと言えるでしょう。

 もしドーキンスの本のタイトルが、ほかの穏当なタイトルだったとしたら、こんなにセンセーショナルな扱いはされず、これほど売れなかったかもしれません。しかし、ドーキンスはまずいとは思いつつタイトルを変えようとはしませんでした。利己的だったのは、実はドーキンスなのでは?と思えてきます。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

リチャード・ドーキンス / 紀伊國屋書店


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by scienceman | 2010-12-31 16:57 | 進化論