ブログトップ

サイエンスマンの本格科学メモ

scienceman.exblog.jp

現代物理、進化論、脳科学など、現代の科学についての個人的思考を中心に記録します。

意識と自由意志

 脳科学の難しさ

 脳の働きを理解する、とくに意識を扱うときの難しさはいったいどこにあるのでしょうか。もちろん1000億個ものニューロンから成るシステムは複雑でわかりにくいことは確かです。また意識というような主観的な現象は直接調べることはできません。結局は自分で自分自身を理解できないのではないか、というような哲学もあります。

 たしかに以上のような理由もありますが、脳科学をもっとも難しくしているもの、あまり指摘されないがもっとも混乱させているものは、実験で得られるような客観的な事柄と、自由意志やクオリアなどの主観的な現象を同じ俎上にのせてしまうことです。主観的な現象は研究者にとっても自明に感じられるため、直感に頼って理論を組み立ててしまうので、主観に由来する歪みも取り入れてしまい、混乱をきたすのです。

 主観的な現象における歪み、すなわち錯覚は、感覚、とくに視覚にある錯視がもっともわかりやすいでしょう。たとえば図のAよりBのほうが長く見える例が有名です(ミュラー・リヤー錯視)。
a0188250_913373.jpg

 視覚の場合は、物差しという客観的な測定器具があって、測定すれば長さが同じなのがわかり、錯視が客観的に判明しますが、意識やクオリアなどの主観的な現象ではなかなかそうはいきません。それらの主観的な現象にも、視覚と同じような錯覚があるのかもしれません。実際、意識については、そのような実験結果が出ています。

 意識の時間的遅れ

 リベットの実験によれば、意識が自由に動作を起こす最大500ミリ秒(0.5秒)前に、無意識のうちに大脳皮質に対応する起動パルスが発生します。つまり、動作をコントロールする順序は、無意識上の起動→意識上の起動→(腕を動かすなど)実際の起動、となります(リベット「マインド・タイム」)。しかし、主観的な意識上は、意識が動作を起こそうと思ってからすぐに実際の動作が起こるように感じられます。すなわち意識では、時間的に錯覚を起こすように仕組まれているようです。

 では、意識は無意識に操られるだけで何もできないのかというと、そうではなく実際の動作までの時間にその動作を拒否できることが、実験的に示されています。もっともそれは予定された動作で示されただけで、100%証明されたわけではありません。しかし、意識が進化の過程で発生したとすれば、何も効力がないものを付け加えたと考えるのは難しいでしょう。ここではリベットの言うように拒否能力があるとしておきます。

 意識は「拒否ボタン付きモニター」?

 実験結果を素直に解釈すれば、意識とは「拒否ボタン付きモニター」ということになります。拒否ボタンがついているものの、意識は遅れて発生するモニターに過ぎないという考え方は、我々の実感とはだいぶかけ離れているように思えます。しかし、錯視に見るように、我々の実感と現実の現象とが大きくかけ離れている可能性は、簡単には否定できないでしょう。

 自由意志という実感からも、意識がモニターに過ぎないという事柄には抵抗が生まれるでしょう。リベットは拒否ボタンの存在によって、かろうじて意識による自由意志が保障されると主張しています。しかしながら、最初に述べたように、客観的な実験事実と自由意志のような主観的な現象とを、同じ枠内に入れて論じることは、混乱と誤りを招くことであり、避けなければなりません。

 ここで錯視の例に戻ってみると、Aの太線がBの太線より短く見えるのは、我々をとりまく三次元の環境では、Aの太線を建物のエッジ、Bの太線を部屋の奥のエッジと解釈すれば、AのほうがBより前にあることになり、AよりBのほうが長くても矛盾しません。すなわち、無意識の視覚の処理によって、通常の環境では正しい認識を導くように修正しているのがわかります(下條信輔「<意識>とは何だろうか」)。図が平面なため、錯覚となってしまうのです。このように、錯覚には意味があって、そこでは生の感覚を現実に沿うように修正しているのです。

 そう考えると、意識がモニターに過ぎないとしても、我々の実感として自由意志が存在するのには意味があると思われます。意識に自由意志があると見せかけているのは、実際には無意識に自由意志があることの反映だとは考えられないでしょうか。しかし、無意識が我々をコントロールしている、という見方にもかなりの抵抗を感じられるかもしれません。何かコントロールできないものにコントロールされているような気がしてきます。

 無意識への偏見

 我々に無意識への偏見はないでしょうか。もしあるとすれば、そのルーツはデカルトとフロイトにあると思われます。

 デカルトの有名な言葉「われ思う、ゆえに我あり」は、存在が疑えるものを徹底的に突き詰めていくと、最後に残るのは考えている自分であるという意味です。デカルトはその事実から出発して、我々の周囲にある世界を再構築していきます。結論としてはすべて存在することになります。

 すべては存在するものの、デカルトの論理の中では我々の主体は「意識」にあるとしています。意識は再構築の出発点であり、無意識は当然主体にはなり得ないのです。しかし、「われ思う、ゆえに我あり」は、哲学的な思考のための出発点というだけであって、意識が主体であると証明しているものではありません。

 にもかかわらず、我々の実感がそうであるため、意識が我々の主体であることを疑いません。意識の時間的遅れを実験的に証明したリベットでさえ、意識の主体性、自由意志を擁護しようとします。しかし、意識とは主観的な現象であり、主体となりうるものなのか実験的に証明されているわけではありません。最初に述べたように、主観的な現象をそのまま鵜呑みにすると、間違った結論にいく可能性があります。

 リベットの実験は、むしろ無意識が主体になりうることを示しているのではないでしょうか。自由意志の主体は無意識であるとすれば、意識がモニターであることと矛盾しなくなります。

 しかし、まだまだ無意識への抵抗は残っています。それは主にフロイトの学説によるもので、無意識のイメージとして、原始的、自己中心的、反社会的、性欲的、病的というダークなものです。フロイトによれば意識下に無意識の暗闇があり、意識の邪魔をしたり、間違いを起こさせたり、反社会的な行為や言動を起こしたりします。

 実際のところ、フロイトの学説は現在では、無意識の存在と葛藤の心理以外、ほとんど否定されていますが、意識・無意識の構図や無意識のダークなイメージは根強く残っています。しかし、意識と無意識を正しく理解するためには、この構図を考え直す必要があるのではないでしょうか。

 創造的でさえある無意識

 無意識がフロイトが説いたよりはるかに高度な処理をしていることを示す話はたくさんあります。有名な研究者が正しい答えを無意識に思いついたり、新しい発見を夢に見たりする逸話は少なくありません。研究者でなくてもそういう体験をする人は多いに違いありません。

 人間の通常の行動はほとんど無意識に行われます。かなり複雑な行動でも、日常化していれば意識が介入する余地はかなり少なくなります。そこには通常、とくに反社会的とか病的なものはありません。日常の作業をすべて意識的に行っていては脳がオーバーヒートしてしまいます。無意識がなければ我々は生きていけないとも言えます。このような無意識が、主体になり得ないと言えるでしょうか。

 たしかに疾病の中には、無意識に反社会的な言動をするものがあるようです。しかし、それらの場合、脳の無意識の部分も侵されている可能性を最初から除外しています。なぜ除外しているのかというと、フロイトの影響による無意識に対する偏見に由来すると考えるのは行き過ぎでしょうか。

 このように無意識に対する抵抗感は根拠が薄いことがわかります。脳の主体は無意識にあることの根拠のほうがはるかに多いように思われます。

 無意識・意識の新しい構図については、また改めて深く考えてみたいと思います。

マインド・タイム 脳と意識の時間

ベンジャミン・リベット / 岩波書店


[PR]
by scienceman | 2011-02-08 09:15 | 脳科学