物理学は迷走している?
おもに超ひも理論の研究方向や研究体制への批判からですが、現代物理は迷走していると言われています。ここでは、物理学研究の手法にしぼって、はたして本当に迷走しているのかどうか考えてみます。
想像力の限界
まず研究の方向や手法について考える前に、人間の想像力には限界があることを認めることにします。これは一見、科学の放棄のように聞こえますが、実際にはそうではなく、現実をしっかりと認めるということです。
たとえば、もし二次元の世界に物理学者がいるとしたら、彼らには三次元の世界は想像を絶する世界に思えるでしょう。立体が二次元の世界をよぎれば、何もないところからいきなり物が現われ、エネルギー保存則など吹き飛んでしまいます。二次元の世界では、二次元の物体をもとに三次元を想像しても、すぐに矛盾に陥ってしまいます。
我々の話をすると、典型的には量子の世界が想像を絶するものでしょうが、その前にも想像を絶する芽は出てきています。たとえば、光は見慣れていますけど、その波としての性質は特殊相対性理論が示すように、簡単に想像できるものではありません。光の速度は座標系に依らず一定で、それはアインシュタインが論文を発表した時点で、すでに十個以上の実験で確かめられています。
光が特殊なのは媒体を必要としない波であることですが、水面の波や音波など我々が想像できる波はすべて媒体を必要としています。媒体があれば、媒体に対して運動する座標系では波の速度は変化しますし、それが我々が想像できる波です。しかし、媒体を必要としない光は、真空中の速度が座標系に関わらず一定であって、実はよくよく考えてみれば、我々はそんな波など想像できないのです。
量子とは・・・
よく目にしている波としての光でもそんな具合ですから、量子になるともはや絶望的です。量子とは粒子と波の性質をもつものであると言われますが、そんな生易しいものではありません。たとえば、電子の流れを二つのスリットで干渉させるよく見かける実験を見ます。すると、電子が一つずつスクリーンに当たったときに、全体の電子流が干渉縞を示すのです。つまり、一つの電子は、過去の電子と干渉を起こすのです。こんな波など、どうしたら想像できるのでしょうか。
量子が波と粒子の二面性をもつと言うときに、我々は波として水面の波などを想像し、粒子としてごく小さな球を想像します。そうすると、シュレーディンガーの猫のように、すぐに矛盾に突き当たってしまいます。これはどういうことかというと、量子とは、我々が想像できる波と粒子、どちらにも似ても似つかないものだということです。
ではもう先に進むことはできないのかというと、そんなことはなくて、問題はありますが量子力学の定式化自体はしっかりしています。数学的には理解されているのです。波としての光については、古典論ですが電磁波の波動方程式で表現できます。
∇2E - ε0μ0∂2E/∂t2 = 0
∇2B - ε0μ0∂2B/∂t2 = 0
これを見れば、真空中の光速c = 1/√ε0μ0 が座標系に依らずに一定であることがわかります。つまり、数式による理解は可能なのです。
三次元がまったく想像できない、二次元世界に住む物理学者も、三次元の数学を使って三次元の世界を記述することはできます。というより、数学を使うことでしか三次元は理解できないのです。
数学的な理解
したがって今後の物理学は、物理的な想像を働かせて進めることはできなくなり、新しい数学を利用して理解するしかないのです。そういう意味では、物理学が迷走しても不思議ではありません。物理学者は今まで、想像力を働かせた物理的な理解を大切にしてきたと思いますが、もはやそれが通用する状況ではないのです。これからのブレイクスルーには、想像力や思考実験などは無力であり、おそらく新しい数学でしか理解できないものでしょう。
したがって、超ひも理論が数学的過ぎるといって批判するのは、見当はずれと思われます。むしろ超対称性のような数学的な概念は、想像できない世界を理解するためのアイデアかもしれません。といって、超ひも理論を擁護するつもりはなく、ひもの振動という明確で想像できる出発点を考えると、それで想像を絶する量子の世界を記述できるとは残念ながら期待できません。
量子力学の解釈で出てくるような、図解された量子のモデルも、間違いである可能性は高いです。そのような明快なモデルから、不可解で想像できない量子の世界が導けるとは到底思えません。量子や重力、宇宙の謎を解くのは物理学者ではなく、もしかしたら数学者かもしれません。
ひょっとすると、この世界には時空とエネルギーしか存在しないのかもしれません。そして時間とは、単にエネルギーが変換して変わることなのかもしれません。いずれにしても、そこにはわずかな想像さえも許さない領域が待っているのでしょう。
想像力の限界
まず研究の方向や手法について考える前に、人間の想像力には限界があることを認めることにします。これは一見、科学の放棄のように聞こえますが、実際にはそうではなく、現実をしっかりと認めるということです。
たとえば、もし二次元の世界に物理学者がいるとしたら、彼らには三次元の世界は想像を絶する世界に思えるでしょう。立体が二次元の世界をよぎれば、何もないところからいきなり物が現われ、エネルギー保存則など吹き飛んでしまいます。二次元の世界では、二次元の物体をもとに三次元を想像しても、すぐに矛盾に陥ってしまいます。
我々の話をすると、典型的には量子の世界が想像を絶するものでしょうが、その前にも想像を絶する芽は出てきています。たとえば、光は見慣れていますけど、その波としての性質は特殊相対性理論が示すように、簡単に想像できるものではありません。光の速度は座標系に依らず一定で、それはアインシュタインが論文を発表した時点で、すでに十個以上の実験で確かめられています。
光が特殊なのは媒体を必要としない波であることですが、水面の波や音波など我々が想像できる波はすべて媒体を必要としています。媒体があれば、媒体に対して運動する座標系では波の速度は変化しますし、それが我々が想像できる波です。しかし、媒体を必要としない光は、真空中の速度が座標系に関わらず一定であって、実はよくよく考えてみれば、我々はそんな波など想像できないのです。
量子とは・・・
よく目にしている波としての光でもそんな具合ですから、量子になるともはや絶望的です。量子とは粒子と波の性質をもつものであると言われますが、そんな生易しいものではありません。たとえば、電子の流れを二つのスリットで干渉させるよく見かける実験を見ます。すると、電子が一つずつスクリーンに当たったときに、全体の電子流が干渉縞を示すのです。つまり、一つの電子は、過去の電子と干渉を起こすのです。こんな波など、どうしたら想像できるのでしょうか。
量子が波と粒子の二面性をもつと言うときに、我々は波として水面の波などを想像し、粒子としてごく小さな球を想像します。そうすると、シュレーディンガーの猫のように、すぐに矛盾に突き当たってしまいます。これはどういうことかというと、量子とは、我々が想像できる波と粒子、どちらにも似ても似つかないものだということです。
ではもう先に進むことはできないのかというと、そんなことはなくて、問題はありますが量子力学の定式化自体はしっかりしています。数学的には理解されているのです。波としての光については、古典論ですが電磁波の波動方程式で表現できます。
∇2E - ε0μ0∂2E/∂t2 = 0
∇2B - ε0μ0∂2B/∂t2 = 0
これを見れば、真空中の光速c = 1/√ε0μ0 が座標系に依らずに一定であることがわかります。つまり、数式による理解は可能なのです。
三次元がまったく想像できない、二次元世界に住む物理学者も、三次元の数学を使って三次元の世界を記述することはできます。というより、数学を使うことでしか三次元は理解できないのです。
数学的な理解
したがって今後の物理学は、物理的な想像を働かせて進めることはできなくなり、新しい数学を利用して理解するしかないのです。そういう意味では、物理学が迷走しても不思議ではありません。物理学者は今まで、想像力を働かせた物理的な理解を大切にしてきたと思いますが、もはやそれが通用する状況ではないのです。これからのブレイクスルーには、想像力や思考実験などは無力であり、おそらく新しい数学でしか理解できないものでしょう。
したがって、超ひも理論が数学的過ぎるといって批判するのは、見当はずれと思われます。むしろ超対称性のような数学的な概念は、想像できない世界を理解するためのアイデアかもしれません。といって、超ひも理論を擁護するつもりはなく、ひもの振動という明確で想像できる出発点を考えると、それで想像を絶する量子の世界を記述できるとは残念ながら期待できません。
量子力学の解釈で出てくるような、図解された量子のモデルも、間違いである可能性は高いです。そのような明快なモデルから、不可解で想像できない量子の世界が導けるとは到底思えません。量子や重力、宇宙の謎を解くのは物理学者ではなく、もしかしたら数学者かもしれません。
ひょっとすると、この世界には時空とエネルギーしか存在しないのかもしれません。そして時間とは、単にエネルギーが変換して変わることなのかもしれません。いずれにしても、そこにはわずかな想像さえも許さない領域が待っているのでしょう。
by scienceman
| 2013-03-07 17:13
| 現代物理