ブログトップ

サイエンスマンの本格科学メモ

scienceman.exblog.jp

現代物理、進化論、脳科学など、現代の科学についての個人的思考を中心に記録します。

カテゴリ:脳科学( 4 )

 無意識と意識の簡単なモデルを提案したときに、睡眠時の夢については記述しませんでした。これはそのときに考察はしたのですが結論がほとんど出なかったためです。夢については、現代の神経科学や心理学においても、その存在理由は明確になっていません。ここでは、以前の意識モデルをもとに、私たちが夢を見る理由を探っていきます。

 ここでの結論は、夢見とは、おそらく進化で発達した睡眠時の認知プロセスが、必然的に生み出す特殊な変性意識状態であるということです。夢はこの特殊な認知プロセスの結果、自動的・必然的に生成されます。

 睡眠時には五つの段階があって、一晩に何回か繰り返されます。一番浅い眠りは、REM(Rapid Eye Movement)睡眠で、眠ってはいますが脳は活発になり、もっとも多く夢を見ている状態です。まず、意識モデルにおいて、REM睡眠でどのような状態になっているかを考えてみます。

a0188250_1671889.jpg


 睡眠時ですから当然感覚は制限されています。とくに眼はつぶっていて知覚がないか、開いても通常光がない状態です。眠っていると大きな音に気づかないこともあるので、聴覚も制限されているようにも見えますが、少なくとも音の情報は脳に入力されているから、知覚が制限されているだけのように思われます。嗅覚や触覚も同様でしょう。

 このような制限された知覚状態で、REM睡眠では眠りが浅くなり、脳が活発化します。当然、脳は制限された知覚と記憶をもとに、認知プロセスを実行します。眼の情報がないので、記憶を頼りに映像をシミュレーションします。REM(急速眼球運動)の理由は明確ではないですが、その認知した仮想映像を追っていると見なすのは不自然ではないでしょう。この認知プロセスは、知覚が制限されていることを除いて、覚醒時の認知プロセスと何ら変わるところはありません。したがって、覚醒時に無意識の認知プロセスの結果で重要なものが意識に報告される(信号M)ように、REM睡眠時でも認知プロセスの結果で重要と判断したものは意識に出力されるはずです。これが夢となります。夢は睡眠時の認知プロセスに必然的に付随します。つまり、睡眠時の「夢」は、覚醒時の「意識」に対応します。

 なぜREM睡眠が発達したのかの理由は、おそらく進化的に有利だったからでしょう。睡眠は非常に無防備な状態で、ずっと長く深く眠っていては危険なことは想像がつきます。かといって、一晩中REM睡眠では寝不足になってしまいます。そこで眠りの深さを繰り返して、ときどきREM睡眠になり、認知プロセスを起動させて危険などを察知する方法が進化してきたのでしょう。また、危険というわけではなくても、赤ん坊の泣き声にすぐ眼を覚ます母親の例などもあります。

イラストレクチャー認知神経科学―心理学と脳科学が解くこころの仕組み―

村上郁也 / オーム社


ヒルガードの心理学

スーザン・ノーレン・ホークセマ / 金剛出版


[PR]
by scienceman | 2012-06-09 16:04 | 脳科学
 ミラーニューロンは最近発見された脳細胞群で、発火して身体の運動を制御するだけでなく、他者の同じ運動を観察したときにも発火します。単に運動それ自体だけでなく、他者の意図も判断して発火します。また運動の視覚情報だけでなく、音にも反応します。最初サルにおいて発見されましたが、他の類人猿や人間にも存在することが確認されています。

 ミラーニューロンは自己の脳という鏡に、あたかも他人が存在するかのようにシミュレートして映し、模倣による発達や学習、共感による社会的関係の構築に寄与していると言われています。さらに言語の発達にも関与しているという仮説が出ていて、マーケティングや政治への応用なども試みられています。

 このようにミラーニューロンは人間らしい行為のかなりの部分に関係していると思われますが、基本的に注目すべき点は、それが無意識での機能であることです。人は無意識のうちに自動的にミラーニューロンを発火させ、他者の感情を読み取ったりします。前回議論した無意識・意識モデルでの「高レベル無意識」における機能です。したがって、ミラーニューロンが人間の社会活動で重要な役割を果たしているとすれば、脳では無意識が主体であるという主張が裏付けられることになります。意識は後付けの言い訳にすぎないのかもしれません。

 ミラーニューロンに関して、書籍では「共感」などのポジティブな面が強調されていますが、ネガティブな面もあることを指摘しておきます。正のミラーリングに対して、悪いことが伝播するという「負のミラーリング」です。社会から暴力や戦争が無くならない事実からして、この負のミラーリングが存在するのは確かなように思えます。現代の脳科学から負のミラーリングに対してどのような対処策が引き出せるかが鍵かもしれません。

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

マルコ イアコボーニ / 早川書房


[PR]
by scienceman | 2012-01-16 16:07 | 脳科学
 脳の主体は無意識であり、意識は「拒否権つきモニター」にすぎない、というリベットの実験結果の素直な解釈を基にして、意識のモデルを簡単に組み立ててみます。モデルの概要を図にしてみました。
a0188250_8202723.jpg

 無意識と意識がそれぞれひとつの固まりになっていますが、脳の中で一ヶ所に集中しているという意味ではありません。脳組織としては分散している可能性が大きいです。また右脳・左脳への分割も考えられます。無意識には、自律神経を含む、内臓からの情報と制御を主にする低レベル無意識と、身体の動きや会話など高度な制御をする高レベル無意識に大別されます。無意識の中に記憶場所がありますが、短期記憶については海馬の機能が必要です。
 一方、無意識からモニターすべき情報をそのつど選択し、信号Mによって意識でモニターされます。何を選択するかは主に無意識が行ないますが、意識からのコントロールもある程度はありそうです。拒否権を執行するには、フィードバック信号Fを使って無意識に情報を戻します。図に見るように、身体の情報はすべて無意識につながっていて、無意識が並列処理により行動の判断をし、必要な情報を意識に渡します。したがって、意識が考えているように思われるのは、無意識の思考をなぞっているか、後付けしているに過ぎないということになります。

 簡単なモデルですが、これから見えてくることがいくつかあります。たとえば、頭がぼーっとしている状態は、信号Mが何らかの原因で弱っている状況と考えられます。意識がぼーっとしているときは、無意識に動くことが多く、フィードバックも的確にはできません。
 また、催眠術というのは、同じように信号Mを弱らせか、フィードバックFを遮断する行為だと思われます。そうなると催眠術者の言うことはもともと無意識に直接入っているので、そのとおりに動いてしまい、意識による拒否権がなくなってしまいます。
 たとえば、麻酔で意識のない手術中に話された、医師の会話の内容によって、術後の患者の直り方が違ってくる現象があります。これは、耳から無意識に直接入力された会話の内容が、無意識内の内部記憶に保存されていることの結果と思われます。

 意識のなかには「意識サイクル」のような、仮想のシーケンスがあり、あたかも意志によって身体が動いたかのように錯覚させたり、意識的に思考したように見せかけたり、自己意識やクオリアなどを発生させたりします。それらは無意識の処理をなぞっていて、現実に則していますが、幻覚の一部であるには違いありません。

 このように、意識が脳の中心をなすという考え方は間違いなのかもしれません。脳の主体はあくまで無意識であり、意識は有用ではあるものの付け足しに過ぎないと言えます。かつて地球は宇宙の中心ではなく太陽の周りを回る一惑星になったように、太陽系は銀河系の中心ではなくその端にある辺境の一太陽系になったように、意識は人間および脳の中心ではなく大いなる幻覚を生み出す付属物になるのかもしれません。

脳のなかの幽霊 (角川文庫)

V・S・ラマチャンドラン / 角川書店(角川グループパブリッシング)


意識 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

スーザン・ブラックモア / 岩波書店


[PR]
by scienceman | 2011-12-25 08:24 | 脳科学
 脳科学の難しさ

 脳の働きを理解する、とくに意識を扱うときの難しさはいったいどこにあるのでしょうか。もちろん1000億個ものニューロンから成るシステムは複雑でわかりにくいことは確かです。また意識というような主観的な現象は直接調べることはできません。結局は自分で自分自身を理解できないのではないか、というような哲学もあります。

 たしかに以上のような理由もありますが、脳科学をもっとも難しくしているもの、あまり指摘されないがもっとも混乱させているものは、実験で得られるような客観的な事柄と、自由意志やクオリアなどの主観的な現象を同じ俎上にのせてしまうことです。主観的な現象は研究者にとっても自明に感じられるため、直感に頼って理論を組み立ててしまうので、主観に由来する歪みも取り入れてしまい、混乱をきたすのです。

 主観的な現象における歪み、すなわち錯覚は、感覚、とくに視覚にある錯視がもっともわかりやすいでしょう。たとえば図のAよりBのほうが長く見える例が有名です(ミュラー・リヤー錯視)。
a0188250_913373.jpg

 視覚の場合は、物差しという客観的な測定器具があって、測定すれば長さが同じなのがわかり、錯視が客観的に判明しますが、意識やクオリアなどの主観的な現象ではなかなかそうはいきません。それらの主観的な現象にも、視覚と同じような錯覚があるのかもしれません。実際、意識については、そのような実験結果が出ています。

 意識の時間的遅れ

 リベットの実験によれば、意識が自由に動作を起こす最大500ミリ秒(0.5秒)前に、無意識のうちに大脳皮質に対応する起動パルスが発生します。つまり、動作をコントロールする順序は、無意識上の起動→意識上の起動→(腕を動かすなど)実際の起動、となります(リベット「マインド・タイム」)。しかし、主観的な意識上は、意識が動作を起こそうと思ってからすぐに実際の動作が起こるように感じられます。すなわち意識では、時間的に錯覚を起こすように仕組まれているようです。

 では、意識は無意識に操られるだけで何もできないのかというと、そうではなく実際の動作までの時間にその動作を拒否できることが、実験的に示されています。もっともそれは予定された動作で示されただけで、100%証明されたわけではありません。しかし、意識が進化の過程で発生したとすれば、何も効力がないものを付け加えたと考えるのは難しいでしょう。ここではリベットの言うように拒否能力があるとしておきます。

 意識は「拒否ボタン付きモニター」?

 実験結果を素直に解釈すれば、意識とは「拒否ボタン付きモニター」ということになります。拒否ボタンがついているものの、意識は遅れて発生するモニターに過ぎないという考え方は、我々の実感とはだいぶかけ離れているように思えます。しかし、錯視に見るように、我々の実感と現実の現象とが大きくかけ離れている可能性は、簡単には否定できないでしょう。

 自由意志という実感からも、意識がモニターに過ぎないという事柄には抵抗が生まれるでしょう。リベットは拒否ボタンの存在によって、かろうじて意識による自由意志が保障されると主張しています。しかしながら、最初に述べたように、客観的な実験事実と自由意志のような主観的な現象とを、同じ枠内に入れて論じることは、混乱と誤りを招くことであり、避けなければなりません。

 ここで錯視の例に戻ってみると、Aの太線がBの太線より短く見えるのは、我々をとりまく三次元の環境では、Aの太線を建物のエッジ、Bの太線を部屋の奥のエッジと解釈すれば、AのほうがBより前にあることになり、AよりBのほうが長くても矛盾しません。すなわち、無意識の視覚の処理によって、通常の環境では正しい認識を導くように修正しているのがわかります(下條信輔「<意識>とは何だろうか」)。図が平面なため、錯覚となってしまうのです。このように、錯覚には意味があって、そこでは生の感覚を現実に沿うように修正しているのです。

 そう考えると、意識がモニターに過ぎないとしても、我々の実感として自由意志が存在するのには意味があると思われます。意識に自由意志があると見せかけているのは、実際には無意識に自由意志があることの反映だとは考えられないでしょうか。しかし、無意識が我々をコントロールしている、という見方にもかなりの抵抗を感じられるかもしれません。何かコントロールできないものにコントロールされているような気がしてきます。

 無意識への偏見

 我々に無意識への偏見はないでしょうか。もしあるとすれば、そのルーツはデカルトとフロイトにあると思われます。

 デカルトの有名な言葉「われ思う、ゆえに我あり」は、存在が疑えるものを徹底的に突き詰めていくと、最後に残るのは考えている自分であるという意味です。デカルトはその事実から出発して、我々の周囲にある世界を再構築していきます。結論としてはすべて存在することになります。

 すべては存在するものの、デカルトの論理の中では我々の主体は「意識」にあるとしています。意識は再構築の出発点であり、無意識は当然主体にはなり得ないのです。しかし、「われ思う、ゆえに我あり」は、哲学的な思考のための出発点というだけであって、意識が主体であると証明しているものではありません。

 にもかかわらず、我々の実感がそうであるため、意識が我々の主体であることを疑いません。意識の時間的遅れを実験的に証明したリベットでさえ、意識の主体性、自由意志を擁護しようとします。しかし、意識とは主観的な現象であり、主体となりうるものなのか実験的に証明されているわけではありません。最初に述べたように、主観的な現象をそのまま鵜呑みにすると、間違った結論にいく可能性があります。

 リベットの実験は、むしろ無意識が主体になりうることを示しているのではないでしょうか。自由意志の主体は無意識であるとすれば、意識がモニターであることと矛盾しなくなります。

 しかし、まだまだ無意識への抵抗は残っています。それは主にフロイトの学説によるもので、無意識のイメージとして、原始的、自己中心的、反社会的、性欲的、病的というダークなものです。フロイトによれば意識下に無意識の暗闇があり、意識の邪魔をしたり、間違いを起こさせたり、反社会的な行為や言動を起こしたりします。

 実際のところ、フロイトの学説は現在では、無意識の存在と葛藤の心理以外、ほとんど否定されていますが、意識・無意識の構図や無意識のダークなイメージは根強く残っています。しかし、意識と無意識を正しく理解するためには、この構図を考え直す必要があるのではないでしょうか。

 創造的でさえある無意識

 無意識がフロイトが説いたよりはるかに高度な処理をしていることを示す話はたくさんあります。有名な研究者が正しい答えを無意識に思いついたり、新しい発見を夢に見たりする逸話は少なくありません。研究者でなくてもそういう体験をする人は多いに違いありません。

 人間の通常の行動はほとんど無意識に行われます。かなり複雑な行動でも、日常化していれば意識が介入する余地はかなり少なくなります。そこには通常、とくに反社会的とか病的なものはありません。日常の作業をすべて意識的に行っていては脳がオーバーヒートしてしまいます。無意識がなければ我々は生きていけないとも言えます。このような無意識が、主体になり得ないと言えるでしょうか。

 たしかに疾病の中には、無意識に反社会的な言動をするものがあるようです。しかし、それらの場合、脳の無意識の部分も侵されている可能性を最初から除外しています。なぜ除外しているのかというと、フロイトの影響による無意識に対する偏見に由来すると考えるのは行き過ぎでしょうか。

 このように無意識に対する抵抗感は根拠が薄いことがわかります。脳の主体は無意識にあることの根拠のほうがはるかに多いように思われます。

 無意識・意識の新しい構図については、また改めて深く考えてみたいと思います。

マインド・タイム 脳と意識の時間

ベンジャミン・リベット / 岩波書店


[PR]
by scienceman | 2011-02-08 09:15 | 脳科学